28.武蔵七党と「猪俣党」 (平成19年4月28日、5月18日、、24年7月17日、令和3年8月29日)

 平安時代末期、それは「貴族」から「武士」への主役交代の時期だった。源氏と平家に代表される武士の台頭。武蔵国(今の埼玉県と東京都)でも中小武士団が形成されていった。それが「武蔵七党」と呼ばれる武士団の登場であった。武蔵七党として、児玉党、横山党、猪俣党、村山党、野与党、丹党、西党、綴党、私市党などが知られている。武蔵七党は7党でなくもっと多く、文献によって選び方も違う。
 京の都から「武蔵守」として赴任してきて、その地に土着し、住み着いた地名を姓名とし、一族で武士団を形成していった。

猪俣党系図
−猪俣党系図
 小野孝泰という人物が朝廷の牧場「小野牧」の別当兼武蔵守として、武蔵国へ下向・赴任してきた。小野孝泰の子の一人、武蔵権守「義孝」が「横山」(東京都八王子市)に館を構え「横山」と称した。そして「横山党」を創設した。
 小野孝泰の子の一人、武蔵介「時資」が「猪俣」(埼玉県児玉郡美里町)に館を構え「猪俣」と称した。その子「時範」は「猪俣党」を創設した。
 武蔵七党の2つ「横山党」と「猪俣党」はこうして誕生した。同族で、「小野妹子」、「小野篁(たかむら)」の子孫である。

 源氏とは当初から協力関係にあり、「前九年の役」、「後三年の役」や「源平合戦」に従軍している。猪俣党の中ではっきりと歴史に名を留めているのは猪俣時範の五代の孫の猪俣小平太範綱(小平六)。『保元物語』に同族猪俣党の岡部六弥太忠隆、酒匂三郎とともに源義朝に従ったとある。また「平治の乱」でも源義平十七騎の中に名が見える。源義平は源義朝の長男、通称「悪源太」。この17騎とは鎌田政清・後藤実基・佐々木秀義・三浦義澄・首藤俊通・斎藤実盛・岡部忠澄・猪俣範綱・熊谷直実・波多野延景・平山季重・金子家忠・足立遠元・上総広常・関時員・片切景重の坂東武者17騎。源頼朝の挙兵時から譜代の家人として従い「一ノ谷の合戦」では源義経配下で働き越中前司・平盛俊(平清盛の第一家臣・平盛国の子)を討ち取っている。また岡部六弥太忠澄は薩摩守・平忠度(平清盛の弟・平忠盛の6男)を討った事で有名。あの“無賃乗車”を意味する「薩摩守ただのり」だ。

 こうして、源頼朝の挙兵以来行動を共にし鎌倉幕府では御家人となった。横山党は「和田合戦=和田義盛の乱」で和田義盛と共に北条に滅ぼされた。横山党は3,000人討ち死にし、横山所領の「横山荘」は鎌倉幕府の文官、大江広元の所領となった。
 戦国時代には武蔵国は小田原の北条の勢力範囲に組み込まれていった。北条の家臣として、同じ猪俣党の末裔「猪俣能登守邦憲」が歴史に登場する。富永氏から猪俣の養子となった人物。彼は上州「沼田城代」として、近くに位置する真田側の「名胡桃城」を奪取して、豊臣秀吉の小田原征伐の口実を作った人物。

 さて、プロフィールにも記述しているが、猪俣家の先祖は「上杉謙信」の家臣であった。数年前死んだ父親は「猪俣は上杉家家臣の中でも禄の高い武将」が口癖だった。では、わが先祖の「猪俣」はどうして、武蔵国から越後国の「上杉謙信」の家臣になったか?
 越後の守護代「長尾景虎」が、小田原北条氏に追われて越後に逃れてきた関東管領「上杉憲政」の養子となり「上杉政虎のちに輝虎=上杉謙信」と名前を改め、「関東管領、上杉謙信」として“関東の秩序回復”を目的に関東に度々出陣し北条と戦い、北関東の旧領地を徐々に回復していった。
 まず、「上杉憲政」の家臣として共に越後に逃れてきた事が考えられる。次に、北関東の秩序回復によって、北関東の豪族諸将と一緒に「上杉謙信」に従属した事が考えられる。次に、北条と上杉が和睦した時に、当主「北条氏康」は息子「氏秀」を人質に出しており、(上杉謙信はこの人質を養子として迎え入れ「上杉景虎」と銘々)その時に「猪俣」一族の一部が随行した事も考えられる。

 猪俣党系図にも載っているが、猪俣の一族に「甘粕」がいる。「武田信玄」との「川中島の戦い」の最大の激戦時(第4回目、永禄四年の戦い)の“しんがり”を勤めたあの「甘粕」と同じか?。双方共に数千の戦死者を出し、信玄の弟「武田信繁」や、軍師「山本勘助」が討ち死にした戦。そして、あの「甘粕事件」の首謀者で、「満州国」建国に深い関りを持ち夜の満州を支配した、満州映画協会(満映)理事長の「甘粕正彦」の祖父は「米沢藩士」なので、同じ甘粕一族であろう。

 埼玉県児玉郡美里町に「猪俣党」の発祥地「猪俣」の地名が有り、隣接して「甘粕」や「木部」の地名も有る。一族からは猪俣、甘粕、木部、男衾、河匂、岡部、人見、藤田、飯塚、蓮沼、荏原、大田、横瀬、等の各氏族が派生している。ここには、「猪俣百八燈(ひゃくはっとう)」という国の重要無形民俗文化財に指定されている行事が有る。美里町猪俣地区に有る堂前山の尾根にある108の塚に、毎年8月15日の夜、若者が火をともす伝統的行事。猪俣党の棟梁「猪俣小平六範綱」の霊を慰める行事といわれる。この地には「猪俣城」城跡も残っている。

 現在、「猪俣」姓は新潟県上越地方と福島県会津地方に多い。これらは「上杉謙信」の養子で家督を継いだ「上杉景勝」が、移封され移り住んだ領地である。「猪俣」発祥地、埼玉県児玉郡美里町に「猪俣」姓はいないとの事。
 平成20年12月6日(土)放送のNHKラジオ「ふるさと自慢、歌自慢」は南会津町からの中継で、男性出演者3名のうち2名が「猪俣」姓だった。伝統芸能「会津万歳」の伝承者にも「猪俣」姓が多い。

 元巨人軍のエースで監督も勤めた藤田元司氏(故人)は「猪俣党」の末裔だと何かの本で読んだ事がある。
 江戸幕府の「旗本人名辞典」には寛政11年(1799年)付けで「猪俣」が2名記述されている。
  @猪俣岩治郎則為、 禄高:50俵3人扶持、本国:武蔵、本姓:小野氏、屋敷:本所緑町、家紋:丸の内井桁
  A猪俣武左衛門範昭、禄高:現米80石、本国:武蔵、本姓:小野氏、屋敷:下谷三枚橋通り、家紋:井桁

 猪俣の本流の宗家は何処に住んでいるか知らないが、お互いに先祖を共有する人達は、情報を持ち寄って、謎の部分を補完し合えたらいいねぇ。

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